テレビCMで見る「たかの友梨」。
あの派手な広告に流れる独特の世界観は、正直なところ、最初は私の美意識とはかけ離れていた。
バブリーで華やか過ぎるイメージが先行し、「自分には合わないだろう」と敬遠していたことを認めざるを得ない。
しかし、ある取材でたかの友梨に通うシングルマザーの女性と出会い、彼女の言葉に衝撃を受けた――「あそこに行くと、”誰かに扱われる自分”じゃなく、”自分として扱われる自分”に戻れるの」。
その瞬間から、私のたかの友梨に対する見方は大きく変わった。
「美容サロン」という枠を超えた「ケアと尊厳」の場として、あの空間を捉え直す必要があるのではないか。
本記事では、私が体験したたかの友梨エステを通して、美容と自己表現の間に生まれる小さな革命について考えていきたい。
「たかの友梨」とは何か
1978年に高野友梨氏が創業したたかの友梨ビューティクリニックは、現在全国に70店舗以上を展開する老舗エステサロンだ。
創業から40年以上の歴史を持ち、日本のエステ業界を代表する存在として確固たる地位を築いている。
高野氏自身、エステティシャンとして世界各地の美容技術を学び、それらを日本人向けにアレンジしてきた経歴の持ち主である。
テレビCMが作ったバブリーなイメージ
「エステといえば、たかの友梨!」というキャッチフレーズと独特の世界観を持つCMは、多くの人の記憶に残っているだろう。
華やかでゴージャスな演出、派手なグラフィック、そして時にはややオーバーな表現。
これらが「バブル期の象徴」「高級で敷居が高い」というイメージを形成してきたことは否めない。
実際、私の世代(Z世代)にとって、たかの友梨は「母の世代のもの」という印象が強く、なんとなく距離を置いていた。
そのイメージの源泉はまさに、テレビCMの中で構築された「たかの友梨ワールド」にあったのだろう。
実際の店舗体験:ギャップとリアル
しかし、実際の店舗体験は、そのイメージとは大きく異なる。
確かに高級感のあるインテリアで統一されたサロン空間は存在するが、そこにあるのは「敷居の高さ」ではなく、「心地よい安心感」だった。
カウンセリングを担当するエステティシャンたちは、想像していた「高圧的な美の専門家」ではなく、丁寧に話を聞いてくれる「ケアの専門家」だったのだ。
「美容」という言葉が持つ表層的なイメージと、実際の体験に生まれるギャップこそ、たかの友梨の本質なのかもしれない。
特に印象的だったのは、カウンセリングの際に使われる言葉のチョイス。
「痩せましょう」「美しくなりましょう」ではなく、「本来のあなたらしさを引き出しましょう」というニュアンスの会話が中心となっていたことだ。
「文化資産」としてのたかの友梨
たかの友梨を単なる「エステサロン」として見るのではなく、日本の美容文化の一部として捉える視点も重要だ。
1970年代後半の創業以来、日本女性と美の関係性の変遷を映し出す鏡として、たかの友梨は存在してきた。
時代と共に変化しながらも、常に女性のケアという軸をブレさせないその姿勢は、ある種の「文化資産」と呼べるのではないだろうか。
たかの友梨が提供してきたのは単なる美容サービスではなく、各時代における女性の自己表現や社会的立ち位置を反映した「ケアの文化」だったと考えられる。
社会貢献活動にも積極的で、災害支援や福祉施設への援助など、美容の枠を超えた活動を展開している点も見逃せない。
このような多面的な活動が、「たかの友梨」をただのエステサロンから「文化的存在」へと押し上げているのだ。
初めてのエステ体験記
1. 予約:電話でのやりとりから始まる丁寧なプロセス
2. 来店:緊張感と期待が入り混じる瞬間
3. カウンセリング:自分の身体と向き合う貴重な時間
4. 施術:プロの手技が生み出す心地よさの体験
5. アフターケア:施術後のフォローと次へのステップ
サロンの扉を開けるまでの葛藤
初めてのたかの友梨予約は、正直なところ、かなりの勇気が必要だった。
「高いんじゃないか」「勧誘がしつこいんじゃないか」「自分の体型をけなされるんじゃないか」。
そんな不安を抱えながら電話を握る手は、わずかに震えていたことを覚えている。
しかし、受話器越しに聞こえたのは、驚くほど柔らかな声だった。
初めての不安を察してか、オペレーターは終始穏やかなトーンで、初回体験コースの説明をしてくれた。
「何も特別なものは必要ありません。お手ぶらでいらしていただいても大丈夫です」という言葉に、少し肩の力が抜けたのを感じた。
当日、サロンの入り口に立った時の緊張感は今でも鮮明に覚えている。
鏡のように磨かれたガラスドア、整然と並べられた観葉植物、静かに流れる心地よいBGM。
「ここに来て良かったのだろうか」という迷いが頭をよぎったその時、スタッフの方が笑顔で迎えてくれた。
カウンセリングに映る「自分」の輪郭
カウンセリングルームに通されたのち、まず驚いたのはその丁寧さだった。
単にエステコースの説明をするだけでなく、私の生活習慣や体調の変化、最近の悩みについて、実に30分近くかけて質問してくれたのだ。
その過程で自分自身の身体や生活について、普段は考えないような発見があった。
「早朝に起きて活動するタイプなのに、夜型生活を強いられている」「デスクワークが増えて肩こりが悪化している」「季節の変わり目に肌荒れが起きやすい」。
カウンセリングシートを埋めていくうちに、自分の体と生活の輪郭が、少しずつ鮮明になっていくのを感じた。
そして特殊な機器を使って肌の状態をチェックする場面。
普段見ることのない自分の肌の拡大写真は、正直なところ衝撃的だった。
しかし、エステティシャンの方は決して否定的な言葉を使わず、「これは乾燥によるもの」「これは血行不良のサイン」と、科学的な説明を加えてくれた。
自分の身体の現実と向き合う時間は、思いのほか価値あるものだった。
トリートメント中に考えたこと
実際のトリートメントが始まると、そこには想像していた「痛み」や「苦行」はなかった。
代わりにあったのは、プロフェッショナルな手技が生み出す、深いリラクゼーションだった。
香りの良いオイルを使ったハンドテクニック、心地よい圧が続くリンパマッサージ、そして時折挟まれる会話。
「力加減はいかがですか」「ここが特に凝っていますね」という声掛けが、施術の全工程を通して続いた。
この体験の中で、私の思考は徐々に内側へと向かっていった。
身体に触れること、触れられること
普段、私たちはどれだけ他者に触れられる経験をしているだろうか。
ハグや握手といった挨拶的な接触を除けば、大人になるにつれて、他者の手に身を委ねる機会は減っていく。
エステの施術中、他者の手によって体の緊張が解かれていく感覚は、ある種の「許し」に似ている。
自分の身体を受け入れ、ケアする存在を受け入れるという二重の受容が、そこには存在した。
「上手に手入れされた庭のように、人間の身体も適切なケアを受ける権利がある」──そんなことを考えながら、私はまどろみに落ちていった。
ケアされるという尊厳
施術が終わったとき、鏡に映る自分の表情が穏やかになっていることに気づいた。
身体の変化ももちろんあったが、それ以上に大きかったのは「ケアされた」という感覚だった。
日常生活の中で、私たちはどれほど自分自身をケアする時間を持っているだろうか。
忙しさを理由に後回しにされるセルフケア、面倒だからと省略されるスキンケアのステップ。
プロフェッショナルな手によるケアは、自分自身を大切に扱うことの重要性を再認識させる経験だった。
それは単に「美しくなる」という表層的な変化ではなく、「自分の存在を尊重する」という内面的な変容をもたらすものだったのだ。
シングルマザーとの出会いが教えてくれたこと
たかの友梨について私の考えを変えたのは、ある取材でのエピソードだった。
30代半ばのシングルマザーAさんは、月に一度だけ、「自分へのご褒美」としてたかの友梨に通っていると教えてくれた。
彼女の言葉は、エステという場所の本質を鋭く突いていた。
「自分として扱われる」という言葉の重み
「ここに来ると、”誰かの母親”でも”会社の一員”でもなく、ただの”私”に戻れるの」とAさんは語った。
彼女の言葉は、現代社会における「役割」と「アイデンティティ」の関係性について考えさせるものだった。
仕事場では「〇〇部署の△△さん」、家庭では「□□ちゃんのお母さん」という肩書きで呼ばれる日々。
そんな中で、自分自身の存在そのものがケアの対象となる場所があることの意味は、想像以上に大きい。
エステという空間では、あなたの存在そのものがケアの中心になる。
それは社会から求められる役割や評価から一時的に解放され、ただ「自分」として存在することを許される瞬間なのかもしれない。
美容と自己回復の関係性
美容行為を単なる「見た目の改善」と捉えるのは、あまりにも一面的だ。
それは同時に、自己との対話であり、自己回復のプロセスでもある。
鏡に映る自分の姿を通して、自己理解を深め、自己受容へと至る道筋。
エステティシャンの手によるケアは、その触媒として機能する。
表面的には「美しくなる」という変化を求めているように見えても、多くの人がそこに見出しているのは「本来の自分を取り戻す」という回復のプロセスなのだろう。
美容行為には、次のような側面があると考えられる:
- 自己認識:ありのままの自分と向き合う機会
- 自己受容:自分の身体を愛おしく思う感覚
- 自己変容:より良い状態への変化を実感する喜び
- 自己表現:内面の変化を外見に反映させる創造性
社会的ケアの場としてのエステ
現代社会において、「ケア」が商品化されていることへの批判はもちろんある。
しかし、その批判の中で見落とされがちなのは、商業的なケアの場が持つ「社会的機能」だ。
都市化が進み、核家族化が進行した現代では、かつての地域社会や大家族が担っていたケアの機能が失われつつある。
その空白を埋めるように生まれてきたのが、エステサロンやスパ、マッサージ店といった「ケアの専門施設」なのかもしれない。
特にたかの友梨のような歴史あるエステサロンは、単なるビジネスを超えて、一種の「社会的インフラ」としての側面を持ち始めている。
人と人との触れ合いが希薄になりつつある社会の中で、他者の手によるケアを受けられる場所の存在意義は、今後さらに高まっていくだろう。
美容と社会の交差点で
美容産業とは、常に社会の価値観を映し出す鏡である。
1980年代のバブル期には、豪華さや贅沢さが強調され、2000年代には科学的根拠が重視されるようになった。
そして現在は、「ウェルビーイング」や「自分らしさ」といった価値観が前面に出ている。
たかの友梨も、そうした時代の変遷と共に変化してきたブランドだ。
「美しさ」は誰のものか? 改めて考える
美しさは、誰のものなのだろうか?
この問いは、私が大学時代からずっと考え続けてきたテーマである。
長らく「美」は外部から与えられる評価基準だった。
雑誌やテレビが定義する「美しさ」に合わせるように、女性たちは自分の身体を変形させようとしてきた。
しかし、今起きている変化は、「美しさ」の主導権を取り戻す動きだと言えるのではないだろうか。
「美しさ」とは本来、他者による評価ではなく、自分自身が感じる充実感や心地よさから生まれるものだと考えられる。
そう考えると、エステという場は矛盾に満ちている。
他者(エステティシャン)の手を借りながらも、最終的には自分自身の感覚を取り戻すという、一見相反するプロセスがそこには存在する。
この微妙なバランスこそが、たかの友梨のような場所が持つ独特の価値ではないだろうか。
表では次のように整理できる:
従来の「美」の捉え方 | 新しい「美」の捉え方 |
---|---|
外部評価が重要 | 自己感覚が重要 |
画一的な基準 | 多様性の尊重 |
結果志向 | プロセス志向 |
若さの追求 | 年齢に合った美しさ |
欠点の修正 | 個性の強調 |
Z世代・ミレニアル世代にとっての新しい「ケア」
Z世代・ミレニアル世代にとって、「ケア」という概念はより広義のものとなっている。
フィジカルなケアだけでなく、メンタルヘルスケア、コミュニティケアなど、多岐にわたる領域が「ケア」として認識されるようになった。
その中で、エステという場所も単なる「美容施設」から「総合的なケア空間」へと変容しつつある。
若い世代が求めているのは、以下のような価値観だ:
- オーセンティシティ:本物であること、誠実であること
- インクルーシビティ:多様な価値観を包含すること
- サステナビリティ:持続可能な実践であること
- パーソナライゼーション:個人に合わせたカスタマイズ
たかの友梨が今後若い世代の心を掴むためには、これらの価値観を取り入れながら、独自の強みであるプロフェッショナルなケアの質を維持していくことが重要だろう。
実際、最近のたかの友梨は若い世代への訴求を意識したサービス改革も行っている。
インスタグラム世代に響く写真映えするサロン空間や、個人の悩みに特化したカスタマイズコースなど、時代に合わせた変化が見られる。
たかの友梨を再解釈する意義
たかの友梨を「バブルの遺物」として切り捨てるのではなく、現代的な文脈で再解釈する意義がある。
長年にわたって培われてきた技術やおもてなしの精神は、時代を超えて価値あるものだ。
それを現代的な価値観と融合させることで、新たな美容体験が生まれる可能性がある。
たかの友梨の再解釈は、単一のブランドについての考察を超えて、日本における「美」の変遷や「ケア」の歴史を紐解く文化的営みでもある。
こうした視点で見ると、たかの友梨とは「美容サロン」であると同時に、日本の女性史や消費文化史を体現する「生きた博物館」としての側面も持っていると言えるだろう。
その歴史を尊重しながらも、新しい意味を見出していくことが、より豊かな美容文化の形成につながるのではないだろうか。
まとめ
たかの友梨という空間との出会いは、私にとって「美容」という概念の再考を促すきっかけとなった。
当初抱いていた「バブリー」なイメージとのギャップは、予想以上に大きかった。
そこにあったのは、表層的な美しさを追求する場ではなく、一人の人間として丁寧に扱われる「尊厳の空間」だった。
初めてのエステ体験がもたらした気づき
エステ体験を通して気づいたのは、「ケア」という行為の持つ力である。
他者の手によるケアは、単に身体を整えるだけでなく、心までもリセットする効果がある。
特に現代社会において、「触れる・触れられる」という基本的な人間関係が希薄になる中で、プロフェッショナルなタッチによるケアの価値は、ますます高まっているように感じる。
また、カウンセリングという「語る」プロセスも、自己と向き合う貴重な機会となった。
日常の中では見落としがちな自分自身の状態に気づき、言語化することで、より自分の身体や心に対する理解が深まったのは確かだ。
「ケアと尊厳」をこれからどう考えるか
「ケア」と「尊厳」は、切り離せない関係にある。
ケアされることは、存在を認められることであり、それは人間としての尊厳に直結している。
美容産業が今後向かうべき方向性は、単なる「見た目の改善」ではなく、「ケアを通じた尊厳の回復」ではないだろうか。
それは、以下のような視点の転換を意味する:
1. 商品としての美容から、体験としての美容へ
2. 欠点を修正する美容から、個性を尊重する美容へ
3. 他者のための美容から、自分のための美容へ
こうした転換の中で、たかの友梨のような老舗エステサロンが持つ経験値や技術の深さは、新たな価値を持ち始める可能性がある。
美容が映し出す、私たちの時代と未来へ
美容産業は、常に社会を映し出す鏡である。
バブル期の豪華さ、デフレ期の合理性、そしてポストコロナ時代のウェルビーイング志向。
それぞれの時代における美容の在り方は、その社会が何を大切にしていたかを如実に示している。
そして今、私たちは「量から質へ」「所有から体験へ」「画一性から多様性へ」という大きな転換期の中にいる。
この時代において、たかの友梨のような伝統あるブランドが持つ本質的な価値──手技の確かさ、おもてなしの心、継続的なケアの文化──が再評価される時が来ているのかもしれない。
初めてのエステ体験から見えてきたのは、美容が単なる外見の話ではなく、社会や文化、そして一人ひとりの生き方とつながる大きなテーマだということだった。
それは「ケアと尊厳」という、人間の根源的な欲求に関わる物語でもあったのだ。
たかの友梨は顧客だけでなく子供を持つスタッフにも配慮した職場環境を整えており、「ケアする側もケアされる」という理念を体現している企業として注目されている。
最終更新日 2025年4月29日